1975年オープン、開店50周年のジャズ・セッションバー
イントロの電話番号

『楽器でJAZZを楽しもう』に掲載

ジャズ喫茶イントロをオープンしてから、27年間、店がつぶれる夢なんて、見たことがない。ふつう見たくないよね、そんな夢。でも現実には、経営的、金銭的な苦労も多い。たまには、店が閉鎖に追ぃ込まれる夢くらい体験したつて、不思議じゃないのに。でも俺の夢世界のなかでは、イントロは、強執なる経営体質に恵まれているようで、ただの-度も、つぶれたことがない。だが正確に言うと、「つぶれたことはなかった」と言い直さなくてはならなくなってしまつた。というのは、今年、正月2日の初夢で、遂にイントロ最期の日が、やってきてしまったのだ。

『その日でイントロは、27年間の幕を・・・・・・たまった埃と共に・・・・・・閉じる。
やれやれ、お疲れさまー・・・・・・ため息混じりの感慨に耽りながら、夢の中の俺は、何か大切なものを、確実に失ったことに、その時気付く。だがもう遅い。それにそんな感傷に、浸っている時間はない。もうじき、閉店セレモニーが始まってしまう。準備をしなくては。
昔からのイントロの仲間達、皆、来てくれるかなー。花なんか持つて来るんじゃねーぞ。感極まって、泣ぃちゃったりしたら、俺カッコ悪いから。失業する俺を、ドラマーとして雇ってくれる、バンドのメンバーも皆来ている。演奏することになつているからだ。イントロを閉鎖してまで、やる価値があるのかどうかが、試される初めての舞台・・・・・・夢の中の俺は、緊張している。ぶち切れるまでブッ叩いて、イントロの数々の想い出と伝説に、最後の花を咲かせるつもりだ。

セレモニーの2部は、俺をドラマーとして、ここまで育ててくれた、イントロのジャム仲間を交えて、セッションだ。もちろん、ゴッド井上が仕切る。11年前、40歳にして初心者の俺に、バチの撫り方を教えてくれたハルちゃんや、ブラシュ・ワークの基本を指導してくれた、若さ先輩ドラマー、ヤジーにも叩いて貰おう・・・・・・」
夢の中の俺は、人張り切りだ。つぶれる店のオヤジの悲哀なんか、まるでない。ところで俺は、27年間も続けたイントロを、夢の中とはいえ、なぜ閉めなくちゃならんのか?

どうやら(嬉しいことに)ドラムの仕事が忙しくなって、店を切り盛りする時間的余裕が、無くなつてしまったから、らしいのだ。ワオー。いくら夢の中のストーリー展開とはいえ、なんて軽薄でいい加減なオヤジだ、俺って奴は。でも超好意的に、そんな夢を見てしまう俺の深層心理を分析すると、27年間、コーヒー点てたり、ビールの栓抜いてぱつかりじゃ、飽き飽きしてたのだ。ここいらで一発! 創造的な何かを、ブチかましたいのだ。人生後半戦を、カッコよく生きたいのだ。クソ会社にケツまくつて、辞めちまうサラリーマン的心情と、近いものがあるのかもしれない。ジャズ喫茶店主から作家への華麗なる変身を遂げた村上春樹氏や、ジャズ喫茶は、未だ続けてはいるが、ジャズのベストセラー本を多数執筆し、評論活動に多大なる精力を注ぎ込み、印税生活間近(?)との噂も飛び交う、寺島靖国先輩のことも、俺の意識の底にあったのかもしれない。
『明日からの俺は(残念ながら夢の中の、だが)ジャズドラマーとして、ジャズ再生のために生きるのだ°未来のジャズの、礎になるために・・・・・・」
そうして、2002年、正月2日の朝日と共に、初夢から目覚めた。

プロになる夢なんて、楽器をやっている人なら、誰でも-度は見る。サッカー少年が、Jリーガーを夢見るみたいに。プロになつて、-日中、楽器にどっぷり浸かっていたい。カッコイイCD作って、ミリオンセラー、大儲けしたい。ライヴがはねた後、迫つかけファンのカワイコちゃん達と、楽しくお酒を飲みた~い。みんな夢みてる・・・・・・よね~?こんな初夢、夢だから最高、でも正夢だったら困るよな~、イントロが、エンディングしてしまう冒頭の部分は。 それにしても俺はハマっている、タイコに。我が最愛の子にして、飯の種であるイントロを潰してまで、プロドラマーになる夢を見ちゃうんだから・・・・・・だがこんな初夢を見るのも、実は毎年、正月のエルヴィン・ジョーンズの、恒例ピットイン公演に行つて、いつも精神的に、甚大なる影響を受けているせいだ。ドラムを始めてこのかた、俺の正月は、エルヴイン詣でで明ける。プロドラマーになる夢を見たその日の夜は、正月2日で初日。翌3日も、翌々4日も7500円のチケットを予約しているのだ。

そして昨夜の初夢が、醒めやらぬ俺は、新宿ビットインにいた。かぶりつき最前列だから、時々エルヴィン・ジョーンズの、玉になった汗が飛んでくる。しかしその汗を、よけている余裕はない。だって俺は、ビットインに、あるものを盗む目的で来ているからだ。でも灰皿やポスターを、かっぱらおうってんじやない。もっと価値あるものだ。いい年して照れるが、白状してしまおう。
「エルヴィンのドラミングと、そのグルーヴするフィーリングをだ」

目の前にいるから、しなやかなバチの握り具合や、指の一本一本の動きまで、手に取るように見える。な~んだ、あんな感じに、軽く持つて叩けぱいいんだー、簡単そうではないか・・・・・・と、去年の正月に聴きに来た時には思った。俺のバチの握り方は、どう考えても、固すぎる。戦闘前の、気合が入り過ぎた新入りヤクザが、ドスを必要以上に固く握りしめている、といった感じなのだ、反省反省。これからはもう大丈夫、コツが分かったよ、エルヴィン師匠ありがとう・・・・・・そして去年1年間、エルヴィンのグリップ(バチの握り方)をイメージして、練習に励んできた俺だ。
それでは、エルヴイン的しなやかなバチの握り方を、マスター出来たのかというと、ドラマーヘの道はそんなに甘くはなかった・・・・・・この1年で俺が理解したのは、「いとも簡単そうに見えること程、奥深い技量の、長年の修練が必要なのだ」という、様々な修業にも共通であろう、簡潔にして重要な教訓であった。修練を積めぱ積む程、理解が深まれば深まる程、耳が良くなればなる程、実現したい目標は、もっと遠くに、もっと高度な地平に、いってしまう。このイタチゴッコは、美が深まるための、必然的な永久運動ともいえる。人の叩くタイコを聴くだけで、これだけ反省し、哲学してしまう俺もエライが、この傲慢で強情な俺を、毛をむしられた恥ずかしい羊のように、丸裸にしてしまうジャズ・ドラム道の世界。俺は何とも、恐ろしいことを始めてしまったようだ。その怖さと恍惚の世界を、皆さんに自慢かたがたお伝えするのが、本編の俺の役目と心得る。

さて俺は、ドラムを始めたきっかけから、話し出さなくてはならない。イントロの常連で、かつ早稲田大学スウィング&ジャズという、学生サークルのボス的存在、「タクさん」こと、伊藤琢也という男がいた。その温和な顔からは想像もできないが、本人はジャック・デジョネットばりのドラムを叩く。この男が、俺をたきつけて、イントロでジャム・セッションを始めようと言い出したのだ。13年前の話。
「マスター、レコードばっかし聴いてちやダメだよ。今からはナマだよ、面白いからジャムやろう。楽器は俺達が、スウィングの部室から運ぶからさぁー」 そうじて、月1回のイントロ・ジャムが始まつた。当時、理工学部にあったスウィングの部室から、イントロまで1kmはある°学生諸君はリヤカーで、ウッドベースや、重たいギターアンプなんぞを運んでくれた。もちろん、ドラム・セットもその荷台の中で、未来の俺との宿命的出会いのことなどつゆ知らず、眠っていた・・・・・・。

さてジャムが始まつても、俺は見ているだけ。時々、店主の尊厳を誇示するために、「よ-し!なかなか良かったぞ。じゃあ次はオマエとオマエ、気合入れて演れよ!」などと、音楽的には何も解りもしないのに(今もたいして解つちゃいないが)仕切りつつ、撒を飛ばす。時々、盛り上がる演奏があると、ビール片手にイエーィ、などと叫びながら、手を叩く・・・・・・。まあ楽しいっちゃ、楽しいのだが、何か物足りなさも感じていた。小学校の学芸会の日、同じクラスの子達が、幾分緊張気味ながら、楽しそうに発表曲を歌う。俺は病気が長引いて、練習に参加出来なかったために、一人、客席で聴いているしかない・・・・・・そんな感じの寂しい疎外感を、ちょっぴり味わつていたのだ。とはいっても、そんな風に、ジャムが月に1回のペースで数ヶ月続き、「ジャズ喫茶のつもりで入つたのに、イントロ行くと、たまに下手糞なライヴ演ってるぞ」という、うれしい悪口を小耳に挟むようになった。俺は、演奏に参加出来ない、一抹の寂しさを抱えつつ、月1回のジャムが、結構楽しみになってきた。ナマの音楽を楽しむ、というより、演っている時の、素人のプレイする顔がイイんだよね。いつも酔っぱらって、いい加減なスケベ話ぱかりしている奴も、楽器持ってステージに上がると、崖っぷちに立たされて、オシッコでも漏らしそうな、緊張した顔をして、真剣にプレイする。それは結構カッコ良くて、カワイイのだ。彼らが演奏し終わって、酒でも飲んでいると、すかさず、「お前ら、その情熱と美学を、学業や仕事に少しでも向けろ。そうすりゃ、みんな優等生になれるし、会社の出世頭になるのも夢じやないぞ。ガハハ」 と、俺は説教を垂れるのだ。 一度ハマると凝り性の俺は、ヤマハのアップライト・ピアノを入れ、フエンダ・ツインの、バカ重たいギターアンプを買った。ビクターの名プロデューサーにして、もちろん名ベーシストの駿河氏に、ベースも探してもらった。そんな或る日、次のジャムの日に、どうしてもドラム・セットが、調達できないことになった。ダブル・ブッキングしてしまつたのだ。よーし、それならドラムも買っちまえ・・・・・・だが待てよ、狭いイントロの、どこに常設する気だ?客席を潰さなきやー置き場所なんかない。売り上げの原点である客席を潰して、4席分はぶんどってしまうドラムを入れるなんて、本末転倒。商売人・茂串の、セコく立派に固まった、ポリシーが許さない。勿論カミさんも、ふざけんなって顔してる。だが待てよ、JBL4560の、馬鹿でかいスピーカー・システムを、鉄骨組んでその上に載せて、その下をステージにすれぱいいじゃないか。改装費に金はかかるが、客席を減らさずに、八方丸く収めるには、この方法しかない。「妙案は、困った時に思いつく」てな訳で、俺の右手はもう、馴染みの大工さんの電話番号を回していた・・・・・・。
ステージは出来た。次はドラム・セットを買う番だ。ジャズのライヴ行くと、ドラマーの下半身を覆つている、大きな丸いタイコがある。ベードラとか、バスドラとか呼ばれているやつだ。そこにヤマハとか、パールとか書いてある。メーカー名だ。早稲田ナレオの名ドラマー大場君が言つた、「マスター、ジャズ演るならグレッチでしょ」。聞いたこともないそのメーカー名。でも不良っぽいその響きが気に人った。

「よし、グレッチを買いに行こう」
大場君は新目白通りと、環七の交差点のそばに、「森田楽器」という親切で、良いドラム屋があるという。森田楽器?……聞いたことがある。アッ思い出した。昔、池袋の北口のすぐそばに、森田楽器って在ったっけ。俺はその頃19歳くらい、30年以上前の語だ。
レコード集めに狂奔していた俺は、東京中のレコード屋を、日々巡っていた。池袋はどちらかというと、レコード.コレクター達にとって、不毛の地であった。だが東口にあったヤマハが、廃盤セールをやったりしていたこともあって、全く無視できるエリアでもなかった。たまたま西口(北口)に、ドラム屋を兼ねた、小さい中古レコード屋があることを聞きつけ、大した期待もせず、行ったのだった。

ショーウィンドウには、レコードではなく、ドラムの何かの部品が、飾られていた。初老のおじさんが一人、カウンターにいて、見るからにプロドラマー、といったド派手な風貌のお兄さんと、世問話をしている。俺は、どうせろくなレコードはないだろうと、期待もせずエサ箱を漁っていた。すると、何か違うのだ、他の中古レコード屋の品揃えと。ドラムのレコードがいっぱいあった、とかいうんじゃない。何やら音楽的美学みたいなもんを、感じてしまったのだ。レコードの稀少性を剥ぎ取った後に残る、ジャズ本来の、本質的価値を持った盤が、所狭しとある。また、有名盤とは違った、研究盤とでもいうべき名盤が、エサ箱のスペースの、多くを占めているのだ。ムムッ、この店のオヤジ、なかなかやるな、などと生意気にも思いつつ、俺はなぜか嬉しくなって、当時では全然珍しくもない、真っ赤なジャケットの英ソサェティ盤、チャーリー・パーカー「オーニソロジー」をー500円で買った。ダイアル原盤で、有名なラヴァーマン・セッションが収録されている。ジャケツトの若いパーカーが、ニツコリと俺に微笑んだ……。

おっとっと、昔語より、もっと大昔の話をしてしまった。さて、大場君と連れだって、グレッチを買うために、新目白通り沿いの、新「森田楽器」に着くと、俺の予感は的中した。今の店は、池袋から移転したという。今は、息子さん二人が跡を継いで、ドラム専門店としてやっているという……。20年以上の空白を経て再会した、森田楽器と俺。俺が店に行く目的は、様変わりしちまった、けれど、お互いジャズという、ヘンテコな音楽に関わって、それぞれ生きてきて、20年ぶりに、その運命の糸がまた繋がったのだ……。

妙な感動を胸に秘めっっ、楽器選びに入る。とはいっても、俺は何にも解らないし、関心も殆どない。この時点では、俺が近い将来、ドラムを叩くようになるなんて、夢にも思っていないのだから。ジャムに来る素人ドラマー用の、適当な中古の出物でごまかせばいいと、内心思っていた。そんな俺の、いい加減な気持ちを吐責するかのように、夕方までかかって、凄く熱心に大場君と森田さんが、中古のバランスの良い、オールド・グレッチ4点セットと、K・ジルジャンのシンバル群を選んでくれた。13年以上、イントロでいまだに叩かれ、皆に愛されているセットだが、選んでくれた大場君と森田さんには、本当に感謝している……と今思うのも、やはり白分がその後、そのドラムを、叩くようになったからである。

さて、俺はどのようにして、生涯の友(大袈裟だけど)となるドラムを始めることになったのか?・スイングジャーナル誌2000年7月号に、次のように書いた。
『それは10年前の、或る日のこと。月-回、仲間内のお遊びで演っていたジャム・セッションの日、ドラマーが誰も来ない数時聞があった。いつもは、演奏の順番を仕切るだけだった俺が、運命の糸にたぐり寄せられるように、空席のドラムに向かって、歩いていった。「俺が叩く!」バチの持ち方さえ知らないのに…。でも店主が叩くっていうんじゃ、共演者諾君も、仕方なく付き合わざるを得ない。そのようにして、40歳で、生まれて初めてバチを握り、そして叩いた。ひどい演奏だったのだろうけれど、曲がステラだったこと以外、何も覚えていない。ほのかな快感が、後で静かに、俺の胸にこみ上げてきた。俺もいつか、フィリー・ジョーになれるぽこのドラム初体験が、普通の(?・)ジャズ喫茶だったイントロと俺の、その後の運命を左右することになる。何せ今じゃあ、毎週土曜日になると、素人、プロ入り乱れてのジャムで盛り上がる……』
エッ、なに月-回のジャムが、今じゃ毎週演ってんのか?
そうなのだ。今じゃ毎週、日曜日の朝までジャム狂い!してるのだ。人が演っているのを、ただ聴いているのなら、月イチで、お腹一杯にもなる。だが白分も、下手糞なりに参加できるとなれば、週に1度でも、待ち遠しく感じちゃう。人問って、本当に勝手だよね(アッ俺のことか)。
そして俺が、ますますドラムにのめり込んでいってしまう、ちょっとした事件が起きた。
今から10年前、コルトレーン研究家で有名な、大阪の呉服屋の藤岡が、なんとピアニストのジョージ.ケイブルスを、高田馬場に連れてきたのだ。ちょうど晩メシ時、俺はまずカフェ・コットンクラブに連れていき、ワインで食事、たらふく召し上がって頂いた。デザートの後、俺はこう言った。「全部俺におごらせてくれ」。そしてすかさず、脇にあったグランドピアノを指さして、「ハーイ・ジョージ、腹ごなしに1曲どうだい……」
そこにいたお客さん達、大喜び。拍手も盛大、気をよくしたジョージ・ケイブルスは、ソロで続けて3,4曲弾いてくれた。さてお次は、コーヒータイムだ。「美味しいコーヒーを、飲みに行かないか?・」てな訳で、本丸イントロに無理矢理、連れていってしまった。そこにはジャムの伸間が、大勢待っていた。そこで遂に実現してしまったのだ、ジョージ・ケイブルスとの共演が。俺と演ってくれた曲は、またしてもステラ・バイ・スターライトだった。曲が終わって、ジョージが俺に聞いた。

「ドラム何年やってんだい?・」 「ワン・イヤー」。俺は答えた。

するとニヤニヤ笑って「この嘘つき」というひじ鉄砲を俺に喰らわした。『これだけ叩けるんだから、もっと経験を積んでいるでしょうに』という意味に、勝手に解釈した俺は、嬉しくなって、その日一日、機嫌が良かった。「もうちょっと練習積むから、そのうち俺をバンドで雇ってくれ、ヒッヒッヒ」なんて、冗談めかして(俺にとっちゃ、ちょっぴり本気で)、ジョージに言ったりして、絶好調、酔っぱらいの俺であった。
だが翌日、誰かが録ってくれていた、カセットテープを聴かされて、現実に引き戻されてしまった。俺のタイコは、やっぱりいつも通りの下手糞だったのだ。王子様と踊った後、女中部屋に戻ってきた、シンデレラの悲しい現実とを想い合わせて、俺は肩を落とした。「この嘘つき」というひじ鉄砲は、ドラムを一年間もやっちゃいねえだろう、という意味だったのであろうと思い、一人で赤面した。
このG・ケイブルス事件以来、俺はどっぷり、ドラムにのめり込んでいく、よーし、練習するぞー。毎週火曜日の昼問、いまやジャズ&ボッサ評論やアイドル評論家として名を馳せる板橋純がべース、ゴッド井上がアルトサックス、ダンモで井上と同期の青木がピアノ、そして俺。よく練習したよなあ……下手糞同士。

イントロ閉店後の真夜中、メトロノーム相手に、一人で個人練習をすることもある。実はこれが一番俺の苦手なことだ。どれだけやってもメトロノームと仲良しになれない。どうしても一体感がもてない、離婚寸前の夫婦のようだ。そこで俺は、素晴らしい練習方法を思いついた。我が拙文を、ここまで読んでくれたことに感謝して、タダで教えてしまおう、俺の必殺練習法を。
その必殺練習法とは……昔、オリジナル盤が、メチャ高価だったリバーサイド盤で、W・ケリーが、脚立に乗っているジャケットの盤、憶えてる?・ケリー、バレル、チェンバース、フィーリー・ジョーのカルテツトで、『ウィスパーノット』等を演っている。ところがB面は、フィーリー・ジョーが遅刻して来たために、ピアノ、ギター、べ-スと、ドラム抜きのトリオ演奏なのだ。このB面が使えるのだ。俺は先ず、そのB面に針を落とす。そしてフィーリー.ジョーになりきって、誰もいない深夜のイントロで、ウィントン・ケリーら、共演者達に大声で詫びる。
『悪い悪い、遅れちまって。さあ1気合入れて演ろうぜ』
B面-曲目「ストロング・マン」が始まる。俺はブラシュを握る。ちょっぴりスローなゆったり感を持った、難しいテンポなので、非常にためになる。白分自身に「走るな、落ち着け、落ち着け」と、言い聞かせながら、3人のしっとりとした、グルーヴについていく……。4曲目の「ユウ.キヤント・ゲット・アウェイ」というCのブルースは、俺の得意なテンポ。曲の最後の方で、ギターとピアノがバース交換するところで、俺はドラムソロを挟む……。イェイ、ご機嫌な気分で練習できるんだなー、これが。
ちょっと位トチっても・共演者は大物達だ。誰も文句を言わない一当たり前か一。ジャムで演奏中の時のように、失敗して共演者の冷たい視線を浴びる心配もいらない。気の弱い俺(?)にはもってこいの練習方法である。CDデッキで練習すれば、もっと便利。プログラム、リピート・モードにすれば、何回でも好きな曲を、練習できてしまう。

実はこの話、おまけがあるのだ。その『脚立のケリー』と共演し、練習していた俺は、ある時、思いついた。
「さて・このケリー・バレル、チェンバースのトリオに、俺が入ったカルテツトで、レコーディングし直すと、この名盤はどのようになるのであろうか?」 このようにジャズは、常に、未知の世界を切り開く精神を以てして、進化し続けているのだ(嘘っけ)。
さっそく俺は、このレコードに俺のタイコをかぶせて、DATで録音した。そればかりか、イントロで知らんぷりして掛けてみた。ジャムにも時・顔を出すし、ピアノも弾く若い学生客の一人が、何が掛かったんだろう?・という顔をして、カウンターの俺のほうにやって来た。
「今掛かっているの、何ですか?.」
「先週のジャムの時、巧い連中が来たんで、録音しといたんだ」と、嘘をつく俺。
「結構凄いっすねしピァノなんか、ウィントン・ケリーにクリソツ(注:そっくりのこと)ですねー」
バーカ、当たり前だろう、本人なんだから。それだけなら良かったのだが、その耳の良いピアノ小僧、余計なこと言いやがった。
「タイコが、イマイチですね。ビートに、ちょっと乗り遅れていますね。他のメンツはみんな凄く上手いのに:…・」
俺が叩いてるってこと、知らないもんだから、正直に正しいこと言いやがって。あーあ、掛けなきゃよかった、トホホ。今更「このタイコは俺だ」と、種明かしをするのも悔しいので、黙ってニヤニヤしていたが、きっと俺の眼はつり上がっていただろう。
練習と言えば、イントロに遊びに来てくれる、ビクターの駿河、城野両氏にも、時々練習セッションに付き合ってもらっている。2人とも、ジャズの制作プロデューサーで、ゴキゲンなアルバムを、沢山、世に送り出しているが、それぞれまたゴキゲンな、べース、ドラムを演るのだ。特に城野ちゃんには、俺がドラムを始めた頃、いろいろ教えてもらい、師匠でもある。
ある日、いっものように2人して、イントロにやって来た。俺は、ちょうどいい練習台が来た(失礼!)と思い、思わずニッコリ迎え入れた。「いらっしゃい」。でもちょっと待てよ、今日はいつものように、2人だけじゃないみたいだ。後から美しい女性が、いっしょに入って来るではないか。面喰らうような素敵な人だ。

駿河ちゃんが、紹介した。「ピアニストの国分弘子さんです」
俺は、生まれて初めて、お見合いの席に出たアンチャンの如く、舞い上がって、美人ピアニストの前で飲みまくってしまった。それじゃあ1曲演りましょう、ということになって、国分弘子、駿河べース、俺で演奏が始まった。曲は忘れてしまったが、短めだが、楽しいセッションのひとときであった。しばらく歓談して、楽しくお開きとなったのだが、後日、駿河ちゃんがイントロに来た時、「茂串さん、先日、国分弘子さんとセツションした時、演奏中、彼女の身体のどこか触りました?・」
えっ、いくら触りたい気持ちはあっても、酔ってるとはいえ、そんな度胸は俺にはないっすよ・・・・・・いや、待てよ。あの時、彼女、ソロを2コーラスくらいで、すぐにやめちゃったので、もっと弾けというノリで、バチの先で彼女の腰の辺を、突っついちゃったのを思い出した。やばかったかなあ。
駿河ちゃん日く「実はあの後国分さん、『イントロのマスター、演奏中に私を触るの』と話していたもので」
ワアーそうかー、こりゃあ、まずったなあ。そんなことなら、ちゃんと手で触ればよかった…じゃあなくて、今度会ったら、痴漢的意図は全くなかったことを、弁明して謝罪しておきます、と、駿河ちゃんには答えたが、興奮して演奏してると、そんな失敗をしたこともあった。後日、六本木アルフィーで国分さんに会った時、謝罪して許してもらった……(?)
下手糞ドラムを叩きながら、ジャムを続けていると、失敗も山ほどあるが、国分弘子さんはじめ、大物ミュージシャンが時々来て、一緒にセッションしてくれるという、大きな楽しみがある。次の文章も、前述したSJ誌の、俺の同文からの引用だ。
『……日野皓正・元彦兄弟が来てくれた時は、最高だった。ちなみに、ジャムは前金制。演奏する人も聴く人も、先に1000円払って飲物付、が基本。とはいっても、日本ジャズ界を代表するジャズメンが「イントロで、熱心な若者達がジャムっている」との噂を聞きっけて、わざわざ訪ねてきてくれたのだ。俺が授業料を払っても当然の場面で、入場料を頂戴するなど失礼、と思い、1000円払おうとする日野兄弟に、「ご馳走させて下さい」と、言ったのだ。 ところがおふたりは「いいよ、払うよ。だって俺達、練習しに来たんだもん」などと、オチャメなこと言って、払ってくれちゃった。大物は違うわ。それにしても、天下の日野兄弟から金とって演奏させちゃう、なんて本当の……バチ当たりな幸せ者は、世の中広しといえども、俺ぐらいのものだろう。ガハハ。 それからが凄かった。ヒノテルやトコさんと共演できる!そんな夢のようなことが、現実になったのだ。ジャムに来ていた皆、大喜び。なんと翌朝まで、全員ヘトヘトになるまで激演した。フィナーレは、日野元彦への当たり稽古。ドラマー以外の全員を相手に、1曲-時間に及ぶ大セッション。あの時居合わせた連中が集まると、未だに、思い出話に花が咲いてしまうのだが、あんなゴキゲンな夜は滅多にない。
その夜、トコさんに頂いた彼のネーム入り、パール製121ヒッコリーのバチは、彼の若き日の代表作「流氷」のレコード・ジャケットの中に入れて、お葬式の日以来、イントロ店内に飾ってある……』

イントロ・ジャムには、大物ミュージシャンも来るのだと、さりげなく?・コマーシャルしている俺だが、実際は滅多に有名人は来ないので、悪しからず。今は亡きトコさんは、最後の愛弟子、力武誠に連れられて、何度かイントロに遊びに来てくれた。俺が真夜中、店がはねた後にタイコ叩いてたら、ひょっこり来てくれたことがある。1~2曲、俺の演奏を聴いてくれた後で「こっちに来てご覧」という。トコさん白らバチを持って、俺に言う。「このバチ引っこ抜いてみな」

一瞬、毛利元就の「3本の矢」の語を思いだした俺は、ドラム道の大切な話を、今から聞けるという期待で、緊張した。
『バチを軽く握っているようではあるが、実はしっかりと握られていて、それがドラムを叩く上で、大切である、それを俺に教えてくれようとしてるのだ』と思った俺は、思いっきり、そのバチを引っ張った。ところが俺の想像に反して、バチは「するり」と、トコさんの手を放れ、なんなく俺の手中に収まった。きょとんとする俺に、「こんな風にさあー」と、トコさんは言った。

「こんな風に、軽く持って叩けばいいんだよ。マスターは、バチを強く握りしめて、レガート(シンバルを叩くこと)しているから、チンチキ、チンチキっていう、きれいな音が出ないんだよ。インチキ、インチキって聞こえてしまうのだよなー」
なるほど、トコさんもエルヴィンも、グリップがしなやかだ。だからこそ、美しいレガートが聴こえてくる。ドラマーの個性は、それこそ人それぞれだが、ドラミングの基本はひとつなのだ。また一歩、利口になった俺だった。
ところで、レガートは右利きの人は、右手で叩く。左手はフィル(おかず)を入れたり、連打する時に使うわけだが、俺を含めて、右利きの人間は、どうしても左手の感覚がトロい。力も弱いし、神経も右手のようには、行き渡っていない。その克服は、全ドラマーにとって、重要な課題である。俺はある朝、歯磨きをしながら決心した。

「明日から、左手で歯磨きしよう」その成果が出ているかどうかは、証明しようもないが、今も続けている。けなげでしょう。その話を日本の若手トランペット界の寵児、岡崎好朗がイントロに来た時に、大発見したかの如く白慢げに話したら、「もっと凄いドラマーがいるよ。今演ってるバンドの小林陽一さんなんか、みんなで一緒に飯食う時、右利きなのに左手で箸持って飯食ってるよ」「ワオー、先駆者は既にいた……」俺は地団駄を踏んだ。今年の一月、SJ誌主催の新年会で、小林陽一さんを見かけた。これは、その事実を確かめるいいチャンスだと思い、セレモニーが終わって、食事タイムが来るのを、じっと待った。もちろん俺の視線は、(失礼ながら)陽一さんに釘付けだ。食事が始まった。割り箸を二つに割って……アッ、やっぱり左手に箸を持つ陽一さん。俺は思わず、ニンマリした。昨年、音楽活動25周年記念コンサートを開催したくらいの人だ。生活の全てが、ドラミングに緒びついているのであろう。その精神を垣間見る思いがした。
実は俺、タイコとジャズ屋をやっているおかげで、偉そうにも、ミュτジック・バードというCS放送の、ラジオ番組を持っている。『イントロに気をつけろ』というとんでもないタイトルの2時間番組だ(この本が世に出る頃には、既にクビになっているかもしれないけれど)。日本人ジャズメンが、新作を発表した時に、そのCDを紹介する番組だ。何の打ち合わせもないフリートーク.セツションだが、ジャズ演奏で飯を食っている真剣勝負のプレイヤー達との語は、面白いし、いろいろためになる。
だがこの番組を引き受けた時、俺はもう一つの、ある魂胆を抱いていた。番組に呼ぶミュージシャンを、打ち合わせというお題目で、前もってイントロに呼んで、「じゃあ、1曲やろうか?・」てなかんじで、プロをつかまえて練習台にしてしまおうというものだ。そのとんでもない野望に、犠牲者続出。今までに何人ものミュージシャンを餌食にしているが、多田誠司さん、吉岡秀晃さん、大徳俊幸さん等々、素晴らしくて超ゴキゲンな人達と一緒に、俺がタイコの席に座って、演奏しちまうこの図々しさ。それをこっそりDATで録音する。その上、それを番組で掛けてしまうという恐れ知らずなのだ。 一流ジャズメンに挑みかかる、ジャズ喫茶オヤジの下手糞野蛮ドラム……その奇妙なアンバランスは、視聴者のハートを捕らえて離さない(訳ないよな)。だがその余興のおかげで、新作CDが、より良く聴こえるという(?・)メリットもあるに違いない。ミュージシャンの間では、『イントロの…-オヤジに……気をつけろ」との、警戒警報が出ているらしい。

最近では、サヴォイ・レーベルから初リーダー盤を作ったばかりの、ニュースター、アキコ・グレースを、番組に呼ぶことになった。よし、収録の前にイントロに呼んで、作戦を実行に移そう。優しい彼女は、もちろん来てくれた。レコード会社のプロデューサー、菰口さんも、大切なニュースターを、一人でイントロなんか行かせたら、危険極まりないと、思ったかどうかは解らないけれど、彼女の、これまた可愛いマネージャーと一緒に、来てくれた。 ところで例の俺の魂胆は、既にバレていた。それでも彼女は、「イット・クドゥ・ハプン・トゥ.ユウ」を、俺といっしょに演ってくれた。緊張のあまり冷や汗が出たが、絶対音感べーシストのハチこと、佐藤恭彦にも助けられて、何とかボロボロにならなくて済んだ。番組でそのテープを流すことも、彼女はOKしてくれた。その後はリラックスして、朝までビールとワインを飲みながら、彼女が聴いたことなさそうな、マイナーで渋1いLPを、俺は先輩面して、次々掛けながら、ジヤズ.ピアノの語に花が咲いた。彼女が特に気に入ったのが、モロ・ジャズ演っている頃の、ボブ.ジェームスのリーダー盤2作目『マーキュリー盤ポートレート』であった。う-ん、なるほど。

トランペッター原朋直が「ドゥ・ザット・メイク・ユー・マッド?・」という新作を引っさげて、『イントロに気をつけろ』に出演してくれた時は、なんとも興味深い語を聞かされた。この新作、ドラマーが天才ジミー・コブなのだ。ウェス・モンゴメリーやバディー・リッチ等、若干名の天才ミユージシャンがそうであるように、彼も、譜面が読めないことで有名なドラマーである。もちろん俺も…・天才じゃあないけれど-…・譜面が読めない。全く読めない。だから、余計、コブ殿をはじめ、譜面が読めない、と烙印を押されているミュージシャンに、シンパシーを感じてしまうのだ。 バディー.リッチは、新曲を演る時、先ず、弟子のドラマーに、譜面通りに一度叩かせる。それをじっと聴いていて、譜面を頭に入れちまったバディー。さて本番となると、さっき叩いた弟子の、何倍もカッコ良く決めるのだそうだ。そんな話を聞くと、譜面が読めない俺なんかは「いいぞバディー」と、的外れの声援を送ってしまう。
『譜面が読めないから天才』なんじゃなくて、
『天才だから、たまたま譜面を読む必要がない』だけだというのに。
とはいえ、譜面に弱かったり、読めない人にとっては、痛快かつ、励みになる語ではある。ところが、だ。原ちゃんが語るところによると、この新作のレコーディングで、彼が渡した新曲の譜面を、J.コブは、難なくこなして読んでいた、というのだ。読譜の修業を、密かに積んでいたのだろうか?・それとも読譜出来ないというのは、ただの伝説的なデマであったのか?真実は霧の中だが、俺の中での、J・コブヘの連帯感みたいなものが、ちょっぴり薄らいだのも事実である。同級生が立派に卒莱していくのを、指をくわえて見送っている落第生の気分、と言ったらよいのだろうか。
でもドラムをやる場合には:…・どの水準まで目指すのかにもよるのだろうけど……譜面なんか、ちんぷんかんぷんでも、全然問題ない。その点、他の楽器に比べて、初心者には取っ付き易い楽器だ。基礎はもちろん大切だが、いきなり好きな曲が出来るのも、ドラムの良いところ。10年以上も演っている割に、下手糞な俺だが、こうして続けていられるのも、物事を難しく考え(られ)ないという、適度なバカさ加減と、貧欲なまでに楽しもうとする遊び人根性が、幸いしているに違いない。

叩いている時、俺は、最高にハッピーなリスナーなのだ。俺が大好きな曲を……俺の仲問が……俺の真ん前で……俺のために……演奏してくれているのだ。俺はタイコを叩きながら、それを聴かせてもらっている、俺はいつも、そんな気分で演っている。そしてその時が、俺の至福の時間なのだ。
この原稿を書いていたら、イントロ・ジャムの仕切り男、ゴッド井上から電語が掛かってきた。ジャムは真っ最中、何かあったのだろうか?
「エルヴィン・バンドのべーシスト、カーティスニフンディが、イントロに来たんです。早く来てください」
その日は、1月5日(土)。新宿ピットインでは、「エルヴィン・ジョーンズ&ジャズ・マシーン」の正月公演、最終日前日の、熱いライヴが行われた筈だ。エルヴィン・バンドを聴きに行っていた、若手気鋭ピアニストの堀秀彰が、ピットインの仕事がはねた力ーティスを、連れてきたらしい。俺は、店にスッ飛んでいった。3日前、ピットインのステージの、エルヴィンの斜め後ろで、強烈なビートを刻んでいた顔が、そこにあった。
「ナイス・トゥ・ミーチュー」

握手した彼の手の甲は、とにかく厚い。そして柔らかかった。この手と指から、あの強靱なピチカートが生み出されるのだ。彼のべースは、内蔵マイクも付いていない。それでも、充分で豊かなヴォリュームがある。日本酒が好きらしくて、イントロの酒、茨城産「武勇」を冷やで飲みながら、ジャムに来た女の子達と、楽しくやっている。なんとか1曲、一緒に演りたい。エルヴィンの気分を、味わいたい。頃合いを見て、俺は、清水の舞台から転がり落ちるように、頼んでみた。

「1曲、付き合って下さい」
「OK!」気前よく、返事してくれた。しめしめ。ピアノはもちろん、堀秀彰。ゴッド井上のアルトを入れて「アローン・トゥゲザー」「インナ・センチメンタル・ムード」の2曲を演った。インナ.センチ~は、コルトレーンが、D・エリントンとインパルス盤で、超名演奏を遺している。俺の大好きなアルバムだ。もちろんエルヴィンがタイコ。そのエルヴィンと毎日演っているべーシストと、同じ曲を演奏すると思っただけで、俺は急に萎縮してしまい、タイコも、いつにもまして、ショボくなっちまった。ダメな俺。でも気を取り直していこう。ジャムの夜は、長いのだ……とは思いつつ、折角素晴らしいべーシストと、手合わせしてもらったのに、思うように叩けなかった口惜しさがこみ上げてきて、ついついウォツカが進む夜であった。
カーティスニフンディは、エルヴィン達が泊まっている新宿ヒルトンに、深夜、帰っていった。それでもイントロ・ジャムは、まだまだ続く……。
そして、日曜日の朝5時、ジャム最後の「Fのブルース」が始まった。今日出会った音楽仲間の友情を喜び、明日の、俺達の音楽的進歩を祈って、残っているミュージシャン全員が、交代で演るのが恒例だ。俺は、いつにもまして酔っぱらいのベロベロ。それでも叩く、明日の上達を夢見て……。
ジャムが終わって家に帰ると、俺は着替えもせずに、ふとんに入った。よほど酔っぱらってしまったんだろう。深い眠りについて、多分、冥王星辺りを彷徨っていた。

すると、いきなり電話が鳴った。受話器を取ると、
「マスター、今度はエルヴィン・ジョーンズが、イントロに来ましたよ。すぐ来てください」
また、ゴッド井上からの電話だ。今度はなぜか、声が少し遠い……。俺は酔った足取りで、また店に駆けつけた。イントロの重たい扉を開けると、昨夜、俺と演ってくれた、カーティス・ランディが、(ゆうべのお前の演奏、決して悪くなかったよ)と慰めるように、ニッコリ出迎えてくれた。そしてバンド全員を、俺に紹介するのだ。パット・ラバーベラ(テナーサックス)、デルフィーヨ・マルサリス(トロンボーン)、アンソニー・ウォンジー(ピアノ)、そして、ボスのエルヴィンを……。俺は、一人ひとりと握手する。
最後にエルヴィンと握手した時、一昨日、ピットインで握手してもらった時の感触と、彼の手に残っていたオーデコロンの匂いが、俺の記憶の底から蘇った。するとほんの少し、俺は我に返った。
アッ、もしかしたら、これは夢かな……と夢の中で思いつつ、夢でもいいや、この時間がもうしばらく続いたらいいと、まどろみの中で俺は望んでいる。 そして、俺の手は、まだ、温かいエルヴィンの手とつながっている……。

2002年7月出版『楽器でJAZZを楽しもう』寺島靖国氏編著に掲載した原稿です